東京に戻る直前、mixiの日記に「バスが来なくて1時間待たされて大変、地方は不便」というようなことを書いた。
と、それを読んでくださった、このブログにも何回か登場する某さんが、目からウロコのコメントを口頭&mixi上でしてくださった。
(詳しく知りたい方はわたしとマイミクになって読んでください(笑)。わたしのmixi日記はマイミクさん限定にしてるので)
要するに。
「不便」と思うのは、くしゃ美がそうでない状況を知っている、かつそっちがスタンダードになっている人間だからなのである。
地元の人たちは、1時間に1本とか、1日に3本とかいうバスを、別に不便とは思っていない。そのバスの時間に合わせて予定を組み立てればいいだけの話だし、バスを待っている間に隣り合わせた人とお喋りして、友達になることだってある。
「便利」でしょっちゅう来るバスや電車に振り回されている「都会者」のほうが、実は「不便」なんじゃないのか?
そして極めつけ。
「こういうのって、くしゃ美ちゃんがやりたい、途上国の村とかの仕事でも、おんなじことやないの?そこの人らは、その村の状態が『不便』とは思ってないと思うで。その人らの感じてることのほうが、大事やないのかなあ」
・・・おっしゃるとおりです、師匠。
まったくシチュエーションは同じです、ハイ。
その人たちにはその人たちの慣れ親しんだ生活時間と生活スタイルがある。それを他と比較して不便だとかどうだとか言うことに、どんな意味があるというのか。
外の人間の、価値観の押し付けにすぎないではないか。
くしゃ美はここ最近、「外部者」として、いかに「内部者」の自由意志をサポートする役割に徹することができるか、を学んできたはずだった。
それなりに、少なくとも理屈上は理解したつもりでいた。
それが、やっぱり所詮、「こっちが便利よ、こっちへ来なさい」という、いわゆる開発ワーカーの最悪パターンから、全く意識は抜け出られていなかったのだ。
正直、ショック・・・。大反省中。
でも、それを気づかせてくれた某さんに大感謝である。